「こだわり」に違和感を感じる人。
香茶屋では、店内での飲食を再開しておりますが、3密を避けるための対策をしながらしばらくの間は、店内のイスの数を減らして運営をしておりますので、当店の小さな店内では4名さままでしかご利用できない状況です。

1グループで3名さま以上でのご入店での飲食は難しいと判断していますので、入店をご遠慮いただいております。申し訳ありませんがご了承ください。
また、しばらくの期間は、店内での飲食はコーヒードリンクのみの営業とさせていただいております。

御来店人数が多い場合には、テイクアウトでの営業も行っておりますので、テイクアウトをご利用いただければと考えております。

営業時間も、しばらくの間、
10:30 ~ 18:00 となっております。
よろしくお願い致します。

香茶屋 店主 伊藤

<本日のブログ>

「こだわり」という違和感。

ボクは自分のお店を持つ以前より、「こだわり」という言葉になぜだかわからなかったのですが、「違和感」をずうっと抱いていました。
その違和感は、とてもポジティブには受け取れなくて、皆が「こだわり」をポジティブに捉えている現状にモヤモヤとした違和感があります。

最近はテレビを見ていても、「こだわり」という言葉が前面に押し出されていて、「こだわり」のある商品をセレクトし、その「こだわり」に囲まれた生活スタイルが羨ましがられたり、「こだわり」がとてもポジティブに受け入れられる時代なのだと考えてしまいます。

ですが、ボクはその「こだわり」に違和感を覚え、そしてこれからも「こだわりたくない」と考えながら生活するのだろうなぁと思っています。

だからこそ、感覚は大事で、感覚を磨いていくことが大切なのだと考えるタイプです。

それは、例えですが「こだわり」のコーヒー豆と、この「こだわり」のお水を合わせたら、絶対に美味しくなる!と、こだわりを持つ人は考えるのでしょうけれど、それは正しくないことを知っているからです。
偶然、美味しくなることはあるかもしれませんが、その考え方ではなくて、このコーヒー豆に合うお水はどんなお水だろう?からスタートして、感覚を使って合うお水を選んでいくことで初めてそのコーヒー豆に合うお水を選ぶことが出来るようになるからです。
もちろん選び方のロジックも重要で、それを意識していくことでロジックは自ずと整理されていくものです。

「こだわり」という言葉に違和感を感じる方でしたら、ボクの考え方を受け入れてくれる可能性が大きいと思いますので、ぜひ一度ボクのコーヒーを召し上がってもらいたいと思います。
なかなか「こだわり」に違和感を感じる人も少ないのですけど。

作り手として求められることと、演者として求められること。
香茶屋では、店内での飲食を再開しておりますが、3密を避けるための対策をしながらしばらくの間は、店内のイスの数を減らして運営をしておりますので、当店の小さな店内では4名さままでしかご利用できない状況です。

1グループで3名さま以上でのご入店での飲食は難しいと判断していますので、入店をご遠慮いただいております。申し訳ありませんがご了承ください。
また、しばらくの期間は、店内での飲食はコーヒードリンクのみの営業とさせていただいております。

御来店人数が多い場合には、テイクアウトでの営業も行っておりますので、テイクアウトをご利用いただければと考えております。

営業時間も、しばらくの間、
11:00 ~ 18:00 となっております。
よろしくお願い致します。

香茶屋 店主 伊藤

<本日のブログ>

昨日、テレビを見ているとヴァイオリンの演奏家がヴァイオリンの楽器のことを話されていた。

まず楽器は、長い年月をかけて音が育っていくらしい。
現在ヴァイオリンの素人でも知る「ストラディバリウス」は300年かけて育った音色になっているというお話。

そして、現在の名工が作り出したヴァイオリンも、300年後には今の音色が育ち、今とはまた違う音色になっているということらしいです。

でも、そのヴァイオリンの演奏家が言うことには、「良い楽器は年を重ねていなくても、いい響きをしている。」というような内容の言葉を話されていました。
そのヴァイオリンの音色と合わせて、その言葉を話されると意味が理解できました。

ボクもコーヒーの質を理解するためのトレーニングをしているだけなのですが、気が付くと不思議と「音の質」もなんとなく分かってきている自分がいることに気づきます。
たぶんですが、モノゴトの「本質は同じ」なので、コーヒーのフレーバーから感じる「良質さ」が理解できることで、脳内で感じるその他の「良質さ」も理解できてきているのだと推測をしています。

要はすべて「脳で感じている」ことなので、きちんと脳で質の良さを認識できれば、世の中の質の良さは、その共通点からいろいろと理解ができるということなのだと勝手に解釈をしています。

そして、そのヴァイオリンの演奏者は言っておりました。
ヴァイオリン1台ずつに音色の表情が異なるので、そのヴァイオリンに合っている曲調などもあるということです。
要は優れた演奏者は、ヴァイオリンの持つ個性の音色に合わせて、一番そのヴァイオリンに向いている音色を演奏してあげることが出来る人を言うのだろう。
自分のやりたい演奏をするのではなく、ヴァイオリンという楽器を一番に活かすことのできる技術を持つ人が、優れた演奏者なのだと思いました。

そして、作り手としては、300年後の音色を想像しながら、モノを生み出す。
求められることは、やはりイメージができるかどうか。ということなのでしょう。

視点が変われば、考え方も変わる。
香茶屋では、新型コロナウイルスの感染拡大防止のための休業要請が解除されたことで、店内での飲食を再開しております。

ですが、3密を避けるための対策としまして、しばらくの間は、カウンター2人、テーブルは1つで1人のご利用とさせていただきますので、当店の小さな店内では4名さままでしかご利用できない状況です。

1グループで3名さま以上でのご入店での飲食は難しいと判断していますので、ご了承ください。
また、しばらくの期間は、店内での飲食はコーヒードリンクのみの営業とさせていただいております。
ご了承ください。

御来店人数が多い場合には、テイクアウトでの営業も行っておりますので、テイクアウトをご利用いただければと考えております。

営業時間も、しばらくの間、
11:00 ~ 18:00 となっております。
よろしくお願い致します。

香茶屋 店主 伊藤


<本日のブログ>

今、自宅での楽しみはマンガの「ONE PIECE(ワンピース)」を読み返していること。

今現在96巻ほど単行本が出ていますが、ボクが持っているのは中途半端な18巻から。
なので、18巻から読み返しています。

気持ち的にも、時間的にも余裕が無いと、長編のドラマやマンガを読み返したりできないタイプですので、このコロナで家に居る時間が多いこの時期に読み返そうと思ったのです。

ボクはそれほどオタクでは無いから、それほどマンガに詳しくは無いですので間違っているかもしれませんが「ONE PIECE」というマンガの登場から、敵や味方の登場人物の生い立ちや幼少期から振り返って、「なぜそういった考え方になったのか?」を描いていたりします。

敵や味方それぞれがお互いに自分の中の「正義」を持っています。
その自分の中の「正義」を貫くために戦っています。
何が正義なのか?は、それぞれの幼少期からの教育であったり、経験であったり、出会った人によって変わったりするものです。

なので、マンガの中の敵という位置づけであっても、その敵にはその敵なりの「正義」を持っている。
そこら辺をキチンと描き始めたのが「ONE PIECE」というマンガの画期的な表現方法だと思っています。

「ONE PIECE」が登場したことで、マンガという表現手法の可能性が広がったのだと思うほど凄いマンガだと思っています。

ですが、まだ完結していないので、この自宅に居る時間が多い時に、読み返してみると、新しい発見や、意味の理解が深まったりしています。

そして細かなところは忘れてしまってしたりするので、読み返すとまた面白さを再認識しています。
ただ、1冊読み終えるのに1時間半〜2時間くらいかかるので、なかなか進みません。

名作のアニメやマンガ、ドラマ、映画など、この機会に長編に手を出してみるのは良い機会かも。

「なりたい。」をイメージする。
ボクはイトイさんが運営している「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトをよく拝見している。

イトイさんがそのサイトを立ち上げたのは50歳の時だったという話を聞いたことがある。
今のボクと同じ年に、新たにその会社を立ち上げたのです。

それを考えると、何かを始めるときに年齢というものは関係がないことなんだとインプットする必要があると思ったのです。

この年だから恥ずかしいとか、この年だから先のことを考えるとだとか、それは何かを始める場合の「諦め」に加担するための言い訳であって、願望ではないということなのだと。

イトイさんがある時、「なりたい」を書いたことがあった。
そうなりたい。と言う「なりたい」には「たくさんの気持ちと可能性が入っている。」と言っていた。

ボクもその通りで、「なりたい」っていい言葉だなぁと思った。
だから、ボクもそうだけれど、皆が真剣に「なりたい」を考えれば、とてもポジティブな世の中になるような気がした。

ボクも、ボクが思い描く「なりたい」をより鮮明に思い描けれるようにイメージしたいと思います。
それに向かって「なりたい」が、実現できるように。

今年を振り返ると。
まだ今年を振り返るのはちょっと早いのかもしれませんが、もしかしたら明日や明後日が忙しくて振り返る時間が無い可能性もあるので、今日振り返ってみようかと。

まず、焙煎記録を読み返すだけでも、もうその違いは歴然。
今年の1月の記録と、現在の記録では、設定の数がすでに異なっている。

設定の数は、必要だと理解できたので増やすことになった。
要は、感覚が向上して、それまでの焙煎では不満が登場するようになったので、新たな設定を増やしてみることに繋がった。
そして実際にその設定で焙煎したコーヒーをカッピングしてみて、そちらの方がバランスがよかったから、現在その設定で焙煎をするようになっている。

なので、今年一年で一番変わったことは、感覚が向上したことなのだと自己分析しています。
より細かな部分の「口の中で広がるフレーバーの分析力の理解が深まった」のだと考えています。

そして、これも不思議なことなのですが、目で見ている景色の美しさに対する感動のレベルが上がってきている感覚を覚えています。

ワインソムリエの田崎さんの著書の中に、「嗅覚が成長すると、他の五感も相乗的に成長してくる」というニュアンスの言葉が書かれていたことを思い出す。
口の中で広がるフレーバーの情報をより分析できるようになったことは、嗅覚の成長を気づかせてもらえる情報ですが、嗅覚意外の感覚で感じることができるその他の五感の情報の理解度も成長してきている実感を覚えます。

今年の目で見て感じる美しさの世界観のキーワードは「光と影」です。
ありきたりの言葉かもしれませんが、この真意が理解できてくると、光があって初めてその影の存在があることが理解できてきます。
必ず、明るい光の情報には影の部分の存在があり、その両方が混在しているからこそ、美しさが際立つのだという解釈が生まれてきます。

その解釈が生まれたからこそ、現在の当店のコーヒーの焙煎には「明るさ」の部分と、その「影」の部分とが混在するような味づくりがされているのです。
この理解は、ボクの感覚の中ではとっても大切な解釈の部分で、これを今年理解できたことがとても重要なことだったと考えています。

なので、やはり感覚が成長できたことが、今年一年の収穫だったように思えるのです。

イトイさんの「変わる」ということを読んで。
今日、明日はクリスマスケーキの販売のため、喫茶コーナーのご利用ができません。
予め、ご了承ください。

先週のお話なのですが、「ほぼ日」でイトイさんが「変わる」ということについて書かれていました。

とある人との雑談の中で、
「どんなことでも、毎日欠かさずに10年続けたらかならず一丁前になる。」
ということをとある人が言っていたことと、また別のとある人の法則によれば、
「ある分野でプロのレベルで活躍するためには、総計で1万時間の練習が必要である」
という法則の2つのお話を、雑談の会話の中でしていたら、その会話の中の主人が、
「そうかなぁ、ぼくは時間の分量よりも、回数が重要だと思うよ」と言われたらしくそのことが、今回気づいたその「”変わる”ために必要なこと」と繋がり、そして「小さい変化を、数多く重ねること」が大事なことなんじゃないかという発想の解説のためにそれらのエピソードが書かれていました。

このロジックは「なるほどなぁ」と、目から鱗で、ボクの中でもいろんなことが繋がってきたのです。
ボクの解釈で言い換えれると「基礎をしっかりとするべし」ってことなんだとボクは解釈をしています。それを継続することです。

ただし、以前にもブログで書いたのですが、人によって「基礎の解釈が異なる」ので、何を基礎だと捉えるのかで、その後の成長や変化の度合いが変わってきてしまうことだと考えています。
自分が考えた基礎だと思っていることの回数を重ねたとしても、それが本来必要とされる能力の基礎でなかったとしたならば土台は築かれないということです。

ですので、まずは「何が基礎であるのか?」をキチンと考える必要があるということです。
そこの出発点が実はとても大切なことで、そこが定まっていない状態では、成長の度合いが異なってくるものであるので、やり始める前にキチンと考える必要があります。

そして、イトイさんは最後にこう言っています。
「ぼくらは、変化しようとさえ思っていたら、毎日のように、いくらでも変化する可塑性を持っている。」
そう。あえて「可塑性」という言葉を選んでいること。
ここらへんを、もうちょっと深く考えていきたいのです。

じぶんの時間をつくる。
台風ができたこともあり、来週は天気が微妙なのですが、泊まりで山に行く予定になっているので、とりあえず体だけはしっかりと作っておかないといけませんので、昨日は体づくりのために一人山歩きをしてきました。

よく一人で行く、近くの尉ケ峰(じょうがみね)という低山です。
一人で行くと、もちろん話相手がいませんので、いろんなことを考えたり、意識が自然の中へと向かうので、いろんなことを考えたり、いろんなことの発見につながるんだなぁと改めて気づきます。

以前、「ほぼ日刊イトイ新聞」イトイさんが「毎日書くエッセイみたいなもの」で話されていた「ひとりの時間の大切さ」を思い出した。
もちろん、複数の人たちと過ごす時間も大切で、そこからのいろんな発見もあるのだろうとは思いますが、この「ひとりの時間」は、なんかとても大切のような気がするのです。

なので、これからは、この「ひとりの時間」をできるだけ作っていけるようにしていきたい。
イトイさん曰く、
「大事なのは、じぶんで意識してそうすることで、じぶんのあたまで考えて、じぶんの責任で実行する。」
「じぶんの興味、じぶんの欲望、じぶんの健康、じぶんの感じ方、じぶんの考え、じぶんのジャッジ。」
そこが大切で、それをしなくなることで、じぶんというものが「痩せる」のではないか?と考えていたのです。
「ひとりに、もどる。」これを基本とする一日を過ごす。と言われていました。
言い換えれば、「ひとりの時間をつくる。」

これらは、意識して作っていかなければ、流されてしまい作ることのできない時間なのだということ。
意外と、大切な時間のような気がするのです。

流されるのではなく、じぶんというブレない軸を作るための「じぶんの時間」。
あるようで、ないので、それには意識して作るしか方法はありません。

自分を信じることの大切さ。
ボクは「ほぼ日刊イトイ新聞」のサイトをしばしば拝読させていただいている。
それは、人生において大切なことを教わることがあるからなのです。

コンテンツが豊富で、過去のコンテンツも再度「日の目を見る」ために、topページに貼られていることがあるので、「おっ」と思ったものを見るようにしている。

先日「おっ」と思ったコンテンツは「世界をつくってくれたもの。」×「ヤマザキマリさんの巻」でした。
「ヤマザキマリ」さんは、テレビのコメンテーターとしてちょくちょくお目にかかっているので知っている人も多いと思いますが、マンガ家さんで「テルマエ・ロマエ」を描いて一躍脚光を浴びたマンガ家さんです。

しかし、それまでの人生は波瀾万丈という言葉は、この人のためにあったような人生を送っていて、今回のこのコンテンツを読んで、テレビや写真という画像を通しての「ヤマザキマリ」という佇まいは、これまでの歩んできた人生が映し出されていることを改めて感じさせてくれました。

そして、このコンテンツは全9回まであるのですが、ボクが「そうなんだよ、そうなんだよ。」と改めて思うことがありました。
それは8回目に載っていたことだったのですが、14歳で独り欧州を旅行したことでヤマザキマリさんが気づいたことが書かれていました。

フランスのまったく知らない街で、乗り換えのしかたがわからなくて、言葉もわからなく、看板も読めなくて、知り合いも頼れる人もいない状況で、気づいたらしいのです。
「大丈夫。ここには”自分”がいる。」
という、頼れる存在がそこに居ることに。

そこに気づいてから、それは今の自分にも根づいていて、
「自分をまず最初に頼れる人間にしなきゃいけない。」
と意識するようになり、失敗もいっぱいし、恥もたくさんかき、挫折もし、だけど猛然と前に進んでいく。
という生き方を選ぶようになったと言っておりました。

それを読んで、今の自分にも言えることで、今までの人生の経験があるからこそ、「自分を信じることの大切さ」を改めて大切にしなくてはいけないことなんだと思いました。
たぶん、答えは「自分の中にある」のですから。

興味が湧きましたら「ほぼ日刊イトイ新聞」のコンテンツ一覧の中から、「世界をつくってくれたもの。」または「」ヤマザキマリ」さんで探してみてください。

「こだわり」とは「とらわれている」ということ。
最近気になる「ことば」に「こだわり」ということばがあることは、以前にも語りましたが、なんかいろいろと点と点が繋がってきて、少しずつ理解度が上がってきたので、またここで書いてみたいと思ったのです。

うちの相方が、以前テレビで見たのか、どこかの雑誌で見たのか?そこは忘れてしまったのですが、「維摩経」という仏教の本を「なんか心にひっかかることがあって買った」と言っていた。
そして、うちの相方も以前より「こだわり」という「ことば」がなぜか引っかかっていて、ポジティブな意味で受け取れないでいたという。

そして、最近ボクがこのブログで、「こだわり」ということばの意味を自分なりに解釈して書いたところ、じつは「維摩経」の本の中に「とらわれない」という「ことば」があって、その話を聞いて、「こだわり」という意味は「とらわれる」という意味に繋がったのです。

それが、とても「しっくり」とくる解釈で、「こだわり」とは、心が「とらわれる」ことで、周りが見えないという現象に陥るし、「とらわれる」からこそ動けなくなり「止まって」しまうものであるように思うのです。
それに対し「質を見る」という「本質」の意味は、「感覚」で見つける、もしくは「気がつく」という現象のことなので、良いところと、劣るところの両面を見つける、もしくは「気がつく」ということなのです。
なので、感覚の感度が優れている人のほうが、より細かなところに「気がつく」し、「見える」のです。

「とらわれて」いることで「止まって」しまっていては、「見たり」「気がつく」ことは出来ないので、例えるのならば「真逆」の現象であるのに、多くの人たちは「こだわる」ことで「質の良さ」を得られると思いこみ、勘違いしていうというケースが本当に多いのです。

ですが、そこを「必要」と考えない人たちにとっては、そんな「ことばの意味」は、人生において大したことではないのです。

なにを「大切に考え」、どこを「幸せだと感じるのか?」は、結局は「考え方」ですので、その考え方が「価値観」であり、「生き方」に繋がっているのだと思っています。

当店が、感覚(嗅覚)の感度を育成することで、今までの人生では気がつかなかったような美味しさを発見するという取り組みは、「人生観」ですので、まずはその人生観に興味があるかどうかによるわけです。

「見方」を変えるだけで、いろんなことに気がつき、いろんな情報が見えるようになってきます。
それが「感覚」であり、「感覚」を育てることで、よりいろんなことに「気がつき」、いろんなことが「見える」ようになることに繋がります。

まずは「とらわれない」というニュートラルな考え方が、美味しさの更なる発見に繋がることであると考えています。
「決めつけない」「とらわれない」「こだわらない」。
なかなか考え方を変えるのは難しいのですが、違う意見を気にとめるということが、まずは第一歩。

それだけ「本質」を追求することは難しいということなのだと思っています。
そして、ボクはどれだけ「本質」に近づけているのでしょうか?
「本質」を追求することは、永遠の課題であると言えるでしょう。

イトイさんの『感心する目』。
今日の、『ほぼにち』の『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』を拝見して、ボクも同じようなことを思ったりするので、紹介したくなった。

『ほぼにち(ほぼ日刊イトイ新聞)』の今日のダーリンという『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』は、1日だけしかその『エッセイみたいなもの』は読むことができないシステムになっている。
翌日になると、また新しい『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』に書き換えられて、前日のモノはもう読めないのです。
なので、ブログとはまた異なるスタイルなのです。

ですので、その共感した今日の『ほぼにち』の『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』になにが書かれていたのかを紹介したい。


そこには、『感心できる目』ということについて書かれていました。
最近よく見るスポーツニュースの『相撲』のお話や、将棋の映画での映画を『感心する目』と、その題材になっている将棋を『感心する目』。

そして、それらについてこういう風に書かれておりました。

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「感心する目」には質というものがあって、
 上級者が感心するところを、入門者などは気づかない
 というようなことなど、いくらでもある。



 世のすべての「コンテンツ」について、ぼくが思うのは、
 「もちろん、じぶんがそれをできなくてもいい。
 せめて感心させてもらえないだろうか」ということだ。



ちゃんと「感心できる」人に、ぼくは感心したりもします。


<今日11/25にこの記事を読んで、ほぼにちを読みたくなったら下記アドレスへ>
http://www.1101.com/home.html

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ボクは、仕事柄『コーヒーの質』について深く洞察し、それを分析してわかりやすく伝えたいと思っている。
しかし、それを勉強していくと、どうやら『食全体の質は同じ』だということにも気がついた。
そこで、それらを伝えようとしたときに、『感覚の感度』という『壁』があることにも気がついた。

イトイさんは、それを『感心する目』という表現で俯瞰して見ているんだということがわかる。
特に、
「感心する目」には質というものがある。
と述べている。
そして、
『『上級者が感心するところを、入門者などは気づかない』 というようなことなど、いくらでもある。』
とも述べている。

これは、世の中のすべてのコンテンツで言えることで、上級者はそれらの『質』を見れているからこそ、それに『感心』できるのだが、入門者はそれらの『質』までは見れていないので、それを『感心』するところまでいかない。ということなのだと考えられる。

そして、
世のすべての「コンテンツ」について、ぼくが思うのは、「もちろん、じぶんがそれをできなくてもいい。せめて感心させてもらえないだろうか」ということだ。

とも、述べているのは、
ボクが興味のある『食』に置き換えてみると、『自分で感心するような料理やお酒、食後のデザートなどの甘味、同時に提供されるドリンクなどが作れなくてもいい』、『せめてそれらを作ってくれた料理人の凄さや、出された食材の素晴らしさに対して、感心できるようになりたいと思う。』
と、語っているのではないだろうか。

そして、最後に、
ちゃんと「感心できる」人に、ぼくは感心したりもします。
とも、述べている。

これは、それらを『きちんと感心(評価)できる人』も、それなりのスキルを持っていることを知っているので、そこにも『感心する目』を持って、そういう人にも感心しているということなのだと思いました。


『美味しい』、『美味しくない』はまだ食の入門者の感心で、その先にある上級者の感心は、どういう素材を使い、それらがどういうふうに活かされているのか?という『質の美味しさ』を導き出そうとする料理人にまで感心する目が向けられるのではないでしょうか?



 


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