「こだわり」とは「とらわれている」ということ。
最近気になる「ことば」に「こだわり」ということばがあることは、以前にも語りましたが、なんかいろいろと点と点が繋がってきて、少しずつ理解度が上がってきたので、またここで書いてみたいと思ったのです。

うちの相方が、以前テレビで見たのか、どこかの雑誌で見たのか?そこは忘れてしまったのですが、「維摩経」という仏教の本を「なんか心にひっかかることがあって買った」と言っていた。
そして、うちの相方も以前より「こだわり」という「ことば」がなぜか引っかかっていて、ポジティブな意味で受け取れないでいたという。

そして、最近ボクがこのブログで、「こだわり」ということばの意味を自分なりに解釈して書いたところ、じつは「維摩経」の本の中に「とらわれない」という「ことば」があって、その話を聞いて、「こだわり」という意味は「とらわれる」という意味に繋がったのです。

それが、とても「しっくり」とくる解釈で、「こだわり」とは、心が「とらわれる」ことで、周りが見えないという現象に陥るし、「とらわれる」からこそ動けなくなり「止まって」しまうものであるように思うのです。
それに対し「質を見る」という「本質」の意味は、「感覚」で見つける、もしくは「気がつく」という現象のことなので、良いところと、劣るところの両面を見つける、もしくは「気がつく」ということなのです。
なので、感覚の感度が優れている人のほうが、より細かなところに「気がつく」し、「見える」のです。

「とらわれて」いることで「止まって」しまっていては、「見たり」「気がつく」ことは出来ないので、例えるのならば「真逆」の現象であるのに、多くの人たちは「こだわる」ことで「質の良さ」を得られると思いこみ、勘違いしていうというケースが本当に多いのです。

ですが、そこを「必要」と考えない人たちにとっては、そんな「ことばの意味」は、人生において大したことではないのです。

なにを「大切に考え」、どこを「幸せだと感じるのか?」は、結局は「考え方」ですので、その考え方が「価値観」であり、「生き方」に繋がっているのだと思っています。

当店が、感覚(嗅覚)の感度を育成することで、今までの人生では気がつかなかったような美味しさを発見するという取り組みは、「人生観」ですので、まずはその人生観に興味があるかどうかによるわけです。

「見方」を変えるだけで、いろんなことに気がつき、いろんな情報が見えるようになってきます。
それが「感覚」であり、「感覚」を育てることで、よりいろんなことに「気がつき」、いろんなことが「見える」ようになることに繋がります。

まずは「とらわれない」というニュートラルな考え方が、美味しさの更なる発見に繋がることであると考えています。
「決めつけない」「とらわれない」「こだわらない」。
なかなか考え方を変えるのは難しいのですが、違う意見を気にとめるということが、まずは第一歩。

それだけ「本質」を追求することは難しいということなのだと思っています。
そして、ボクはどれだけ「本質」に近づけているのでしょうか?
「本質」を追求することは、永遠の課題であると言えるでしょう。

イトイさんの『感心する目』。
今日の、『ほぼにち』の『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』を拝見して、ボクも同じようなことを思ったりするので、紹介したくなった。

『ほぼにち(ほぼ日刊イトイ新聞)』の今日のダーリンという『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』は、1日だけしかその『エッセイみたいなもの』は読むことができないシステムになっている。
翌日になると、また新しい『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』に書き換えられて、前日のモノはもう読めないのです。
なので、ブログとはまた異なるスタイルなのです。

ですので、その共感した今日の『ほぼにち』の『糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの』になにが書かれていたのかを紹介したい。


そこには、『感心できる目』ということについて書かれていました。
最近よく見るスポーツニュースの『相撲』のお話や、将棋の映画での映画を『感心する目』と、その題材になっている将棋を『感心する目』。

そして、それらについてこういう風に書かれておりました。

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「感心する目」には質というものがあって、
 上級者が感心するところを、入門者などは気づかない
 というようなことなど、いくらでもある。



 世のすべての「コンテンツ」について、ぼくが思うのは、
 「もちろん、じぶんがそれをできなくてもいい。
 せめて感心させてもらえないだろうか」ということだ。



ちゃんと「感心できる」人に、ぼくは感心したりもします。


<今日11/25にこの記事を読んで、ほぼにちを読みたくなったら下記アドレスへ>
http://www.1101.com/home.html

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ボクは、仕事柄『コーヒーの質』について深く洞察し、それを分析してわかりやすく伝えたいと思っている。
しかし、それを勉強していくと、どうやら『食全体の質は同じ』だということにも気がついた。
そこで、それらを伝えようとしたときに、『感覚の感度』という『壁』があることにも気がついた。

イトイさんは、それを『感心する目』という表現で俯瞰して見ているんだということがわかる。
特に、
「感心する目」には質というものがある。
と述べている。
そして、
『『上級者が感心するところを、入門者などは気づかない』 というようなことなど、いくらでもある。』
とも述べている。

これは、世の中のすべてのコンテンツで言えることで、上級者はそれらの『質』を見れているからこそ、それに『感心』できるのだが、入門者はそれらの『質』までは見れていないので、それを『感心』するところまでいかない。ということなのだと考えられる。

そして、
世のすべての「コンテンツ」について、ぼくが思うのは、「もちろん、じぶんがそれをできなくてもいい。せめて感心させてもらえないだろうか」ということだ。

とも、述べているのは、
ボクが興味のある『食』に置き換えてみると、『自分で感心するような料理やお酒、食後のデザートなどの甘味、同時に提供されるドリンクなどが作れなくてもいい』、『せめてそれらを作ってくれた料理人の凄さや、出された食材の素晴らしさに対して、感心できるようになりたいと思う。』
と、語っているのではないだろうか。

そして、最後に、
ちゃんと「感心できる」人に、ぼくは感心したりもします。
とも、述べている。

これは、それらを『きちんと感心(評価)できる人』も、それなりのスキルを持っていることを知っているので、そこにも『感心する目』を持って、そういう人にも感心しているということなのだと思いました。


『美味しい』、『美味しくない』はまだ食の入門者の感心で、その先にある上級者の感心は、どういう素材を使い、それらがどういうふうに活かされているのか?という『質の美味しさ』を導き出そうとする料理人にまで感心する目が向けられるのではないでしょうか?

寒露(かんろ)。
もう過ぎてしまったのですが、10/8が二十四節気でいう『寒露(かんろ)』で、
『冷たい露の結ぶ頃。秋もいよいよ本番。菊の花が咲き始め、山の木々の葉は紅葉の準備に入る。稲刈りもそろそろ終わる時期である。』と記してある。


朝、車で通勤するときに田んぼの中の道を走ってくる。
毎日見ていると、どうやら稲の色づきが田んぼの面によってちがうのがわかる。
どうやら、植える時期をすこしずつずらして植えているので、田んぼの面で稲穂の色づきがちがうみたい。
もしかしたら、品種によって色づきがちがうのかもしれない。

そんなだから、色づいて稲穂が垂れ下がっている面から収穫され刈り取られている。
刈り取られた面と、まだ色づきの浅い面は刈り取られずに残っている面とになっている。

今はもう機械化が進み、コンバインであっと言う間に刈り取られるが、昭和のボクたちが生まれる前の時代の人の手によって収穫されているころというのは、人手が欲しかったので学校が休校になり、稲刈りに駆り出されていたという話をお客さんから聞いたものだ。
田植えの時期と、稲刈りの時期は、それだけ人手が必要だったようだ。
そういった時代に生まれていたのなら、新米のご飯の美味しさも格別だったのだろうと思う。

エッセイ<色彩を色鮮やかに>
今朝の空模様は、水墨画のようなモノクロームの静けさがあった。
目で見る色彩に、色を感じないのは雨だけの問題ではないはずだ。
どうやら思考がネガティブに突入していると、ボクの目は色彩を感じないようだった。


だが、1杯のコーヒーで色彩が蘇った。
情緒的な1杯のコーヒーは、香りからもたらされる甘さの印象のロースト系のフレーバーと、フルーツ感を思わせる酸味系の素材からもたらされるフレーバー。そして、さざ波のように時間経過と共に打ち寄せては引いていくアフターテイストの余韻に心奪われる。

そうなのである。色彩は香りが創り上げていることに気がついたのだ。
香りを感じ取れていないネガティブな感情が支配しているときにはモノクロームな世界を見させられているのだ。

感情を豊かにし、色彩を鮮やかにしてくれる『香り』を感じとれるようになることが、ネガティブからの脱却へと繋がる道なのだと。
ボクの場合は、そのためのアイテムが芳しい香りを放つ高品質なコーヒーなのであることだと気がついたのだった。

幸福論。
今日は朝から、鉛色の空が低く留まり、ときおりぱらりと雨を降らせている。
昨日降った雨がまだ地表にのこっているせいか、日常の音がかき消され、とても静かな1日だ。
こんな日は、やる気がおきるはずもなく、スローなクラシックの音色に耳を傾けながら、良質のコーヒーをただ楽しんでいる。

なにかで聞いたことがあるのだが、北陸地方は晴れ間が少なく、鬱(うつ)になる人が多いのだとか。
こんな、どんよりとした日が何日も続いたら、そりゃあ気も滅入る。

不思議なのだが、人はこんなふうに天候によっても気分が変わる生き物だ。
もしかしたら、会話ができないだけで、猫や犬だって気が滅入っているのかもしれない。

こんな日は、独りゆっくりとのんびり好きなことをするのがいいのかもしれない。
なんにもしないで、ただ単に『ぼぉっと』していてもいいのだと思う。

時間を有効に無駄なく過ごす日もあれば、なんにもしたくない日には、ただ単にぼぉっとする。
こんな憂鬱な雨降りの日も、過ごし方ひとつで幸せに感じる。

すべての事象は、受け取り方しだいなんだと気がつく。
幸せに感じれるかどうかは、受け取り方次第なのだと。

損をする者。
毎朝、マイカーで通勤している。

とあるK運送会社の車が先頭で走っているため、通勤で急いでいる後続車両がイライラしているのが後ろを走っているボクにも伝わるくらいアオっている。
そんなことをしたって、会社で決められた速度超過を破ることはしないのにと思いながら、その速度でついてゆく。

K運送会社は、一般車道では40km/h以上では走らないという取り決めがある。
50km/hの表示の道路でも、40km/hを守って走らないといけないというルールらしい。
なので、当然車の流れが滞り、イライラする車も多い。

そんなことを考えていると、黄色の車線なので追い越し禁止なのだが、その後ろを走っていた車が追い越しをかけた。
別に見通しの良い箇所ならば、ボクもなにもここで、このことを書くことはない。
ボク達の進行方向が登り坂で、先がコーナーになっており、対向車が見えないブラインドのコーナーでの追い越しだったのだ。
しかも、続いて2台。
ボクは息を飲んで、車速を緩めた。

対向車が来ていなかったのが、ラッキーだった。
もしも、対向車が来ていたら、対向車は下りなので急ブレーキをかけても止まらなかったことだろう。

もしも、事故が起こってしまった場合、ここで悪いのは、その追い越しをかけた車2台であることは間違いない。
しかし、法的速度を順守しているからといって、明らかに流れに乗れていない運送会社のルールはどうなのか?
事故の引き金になるかもしれなかった原因は、そこにも一反がある。

もしも、今回事故が起きてしまっていたとしたら、一番の被害者は対向車の車だったことだろう。
なにもなくてよかったのだが、こういうことが何回も起これば、いつか最悪の事故が起こることは確率の問題で、いずれは起こってしまう。

そのときに自分が、対向車の車を運転していないことを祈るばかりだ。

『ほどほど』がわかる人は、完璧も知っている。
完璧なんてものはこの世に存在しない。
でも、できる限り『完璧』に近づけるために努力はしているはずである。

その『完璧』と『完璧ではない』の幅をできるだけ狭くする努力が、モノづくりの『経験』であったり『品質』であったりするのだとうと思う。
そこに『感度』や『感性』という感覚が必要となるものなんだろうと考える。


当然、完成度の幅が狭くなればなるほど価格は高くなり、品質も向上していく。
生産性も完成度が高くなるにつれて低くなる。だから価格は高い。

消費者はどこを選ぶかによって、価格が決まってくるのだけれど、たまに価格と完成度が見合っていないものがあったりするから不思議。
でも、それを決めるのも消費者。


そこで、賢い消費者になるためには、やっぱり『感度』や『感性』を提供する側と同じレベルで持ち合わせてゆく必要がある。
あまり『感度』や『感性』のレベルが高くなりすぎるのも、細かいところまで気がついてしまうので、ほどほどのレベルにしておくほうが懐には優しい。
難しいことなんだけれど『ほどほど』が毎日の生活の中で使うにはいいと思う。

可もなく不可もなく。
それがわかるだけでも、かなり通といえるだろう。

『ことば』を意識する。
ウチのお店の場合だと、数人で来店した場合に、コーヒーやケーキを食べてなにかしら『自分の声』でその『コメントをする』という人は、ほとんど見受けられない。
ここで申し上げたいのは『自分の声』=『自分の表現力』というところです。

『美味しい』という表現力もボクは社交辞令だと思っているので、より具体的に『ここが美味しかった!』というように、具体的なところまで述べてくれて、はじめて『このお客さんは、ここが美味しかったんだな。』と思うわけです。


そういった具合に、なにかしら食したときの『コメント』を意識しているだけで、なんとなくですが、人それぞれの『感覚』がわかるようになってきます。

この人は『味覚寄り』だなとか、この人は『嗅覚寄り』だなとか、『感度が良いな』とか『感度が鈍っているな』とか。
不思議と発する『言葉』の中にいろんな情報が入り込んでいることに気がつきます。


そう考えると、『自分らしい言葉』で『美味しさを表現する』ということは、自己表現なのです。
可愛らしい洋服や、個性的なメガネや帽子といったファッションと同様に『発する言葉』は自己表現なんです。

そうした場合に『美味しかった』だけでは、『本当に美味しかったのかな?』とも思う人もいるかもしれません。
自分らしい言葉で、表現することで『価値観』を伝えることもできます。

人は同じ価値観を持つグループが一番居心地のよい場所ですので、自分らしい表現力で伝えることによって『同じ価値観を持つ人たち』を見つけやすいという利点もあります。

そのくらい発する『ことば』を意識することで、いろんなことが見えてくるんですよね。

別格の『ぬくもり感』と表現。
今日は浜松でもかなり寒い日で、朝店の前の水たまりに氷がはっていました。
ボクが小学生のころは毎年、『氷』や『霜柱』や『つらら』が通学路の道端にあり、それらで遊びながら通学していたものですが、きっと今日くらいの寒さは、あの頃の真冬では日常的だったのかもしれません。

お店を開けて、のぼりを道沿いまで出しに行くのが日課です。
今日も、そののぼりを出しに行き、てくてくと歩いて帰ってくると、気温は寒いのですが風が無く、背中越しに感じる『お日様』の暖かさを覚えました。

年末に知り合ったお客さまに、『赤ワイン』の『閉じている』『開いている』という感覚を教えていただいたときに、その方から教わった『開いてきた』感覚に『陽だまりのじんわり感』という感覚を思い出しました。
気温はまだ寒いのですが、お日様の当たっている面の『じんわり』と暖かい感覚。

電気的や化石燃料を燃焼させた『温かさ』ではなく、自然のお日様の『暖かさ』。
同じあたたかいと感じる感覚なのですが、その肌で感じる『ぬくもり』は全くの別物なのです。

そういった感覚を、『食』に当てはめて『ことば』として表現すると、理解できている人たちには伝わります。
理解できていない人でも、そう表現することで『どうちがうのか?』を感じ取ることができるようにもなります。

そう考えると、『ことば』の持つ意味の奥深さと、感覚から連想する感性の奥深さ、面白いですよね。

相手の立場になって物事をみれる能力
フィギアスケート男子の羽生選手の空港でのメディアやファンの対応を見て、すごいなぁと感心している人も多いのではないかと思います。
そういう人を見ると、日本人の場合は『その人お親御さん』が素晴らしかったんだとそう捉えます。
特に子供は、育っていく環境で周りの人たちを見て育つので、そう捉えるのだと思います。

では、逆に『周りの人たちに迷惑を平気でかけるような』育ち方をしていたとしたら、やっぱり『親御さんたちが責められる』ことが多いように思います。
これは、一理はあるのですが、すべてに当てはまる訳ではないことも知っています。

ボクが思うにですが、羽生選手は『相手の立場に置き換えて物事をみれる人』なんだと思うのです。
それが、自分がしんどかったり、腹立たしいことがあったとしても、たぶんですが『相手の立場で物事をみれる』能力を持っているのではないかとボクは思うのです。
ほとんどの人が、しんどかったり、腹立たしいことがあると、『相手の立場など考える余裕もなく』なりふり構わず自我がでてきてしまうものだと思うのですが、それを俯瞰してみれる能力を持っているんじゃないだろうかと思うのです。

そういう人が上司にいたりすると、尊敬でき多少理不尽な要求でも『あの人が言うのなら仕方がない』と思えることでしょう。
その逆もあり、逆の場合の『相手の立場になって物事をみれない』という人も世の中にはいるものです。
その場合は、尊敬できなかったり、人望は希薄になってしまうことでしょう。

なにが言いたいのかというと、『相手の立場になって物事をみる』ということは、『気がつく』という能力だと思うのです。
大学の試験とかは、『どれだけ記憶できているか?』という能力を試すことに対して、『気がつく』能力というのはもっと本質のような気がするのです。
どっちかの能力しか無いのだとしたら、『学』は無いけど、よく『気がつく』という人のほうが世の中では以外と重宝されるような気がします。
結婚相手も、長い目でみると『気がまわる』人のほうがきっと重宝されることだと思います。
ボク的には、そんなふうに思っているのです。



 


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