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気づきの論理。<秋野不矩美術館の建築士「藤森照信」さんの想いに触れて>

公開日:2022年4月20日更新日:2022月04月20日
カテゴリ:お便り, 論理的な考え方

気づきの論理。<秋野不矩美術館の建築士「藤森照信」さんの想いに触れて>

昨日の定休日に、うちの相方が友達と「くんま水車の里」に行くので、その下見に自分で運転して行きたいから助手席に乗ってくれと言われた。
天竜区の「熊」と書いて「くんま」と呼ぶ。

行きはスマホのナビの案内で、引佐から渋川を抜けていく案内だったのだけれど、ボクの頭の中にあった「熊」は天竜の上の方。
天竜から行けばいいのに、と思っていたけれど、ナビの案内で行くらしい。
案の定、道中の道が狭くて、山道はうねうね。
山をひとつ超えて、太い道に出て少し走ったら「くんま水車の里」という道の駅に着いた。
そこで、お昼ご飯を食べて、帰りは天竜に抜ける道を走っていくので、そこまで来たならついでに「秋野不矩美術館」に寄って行くことにした。

ボクのクセは、物心つく頃から「違和感」を探るクセが身に染み付いてしまっている。
浜松に住んでいるのに、数年前に初めて「秋野不矩美術館」訪れた際に感じた違和感は、幾つか記憶していた。

まず、一つ目は誰でもが気づく「靴を脱いで作品を見る」こと。
そして、2つ目は、「自然光が入るように作られている」こと。
3つ目は、その自然光が入る部屋には「大理石が敷かれている」こと。

ボクは常々、それらの違和感が「なんのために必要なのだろう?」と考えてしまう。
ただし、それらの違和感は初回で理解できることは、まず無い。
その違和感を頭の片隅に置きながら、何回か訪れ、そして作品を見ているうちに、新たな違和感が生まれる瞬間が訪れたりする。
そして昨日、秋野不矩美術館に訪れて気づいてしまった。
それは設計された「藤森照信」さんの想いに。
その想いは、当たり前のことなのだけれど、「秋野不矩」さんの作品をより「引き立てる」ための美術館となっているということ。
その想いには「いろんな表情を持っている」ことに気づいてもらいたいという想いが伺え、そして同じ作品を何度も足を運んで見てもらいたいという想いも受け取ることができる。
そこには、「秋野不矩」作品への愛を感じる。

そして、3つのすべての違和感が結びつくためには、大理石がとても希少なものであることがとても大事なのだということ。そしてそれは「素足で」にも繋がり、自然光が入るにも繋がっていることに結びつく。
これは、「こだわり」からでは決して登場することの無い、建築士としての「想い」から出発している建築であることも理解できる。
そして、そこにも解説はなく「秋野不矩」作品を通じて「感じて欲しい」と無言で訴えている点も、とても奥ゆかしい。
なので、ボクもすべては語らない。

それらのことを考えながら、成り立ちを理解するためのロジックを考えていた。
そう「気づき」とは、違和感が出発点なのだということ。
そして、その違和感の正体は「異質」という違和感。
ボクがよく使う言葉に「非凡さ」という言葉があるのですが、「非凡さ」を理解するためには「一般的」を理解することが大切なのだとよく語る。
「異質」は、「一般的では無い」という状態を示すものとしてボクはとらえている。

なので、気づきを得るための準備には、「一般的」をきちんと俯瞰しながら感じていることがとても大切なのだと。
そして、その「一般的」から外れている感覚があった場合に、「異質」だという違和感をしっかりと受け止めること。

そして、その違和感が何に対して結びつくのかを、何かを軸にして「比較すること」で、脳内で何かと何かが繋がる現象が起こる。
それが「気づき」なのだと思う。

このロジックを理解したいモノゴトに当てはめて取り組めば、いずれ理解したいモノゴトの成り立ちへと向かうことができるのだと思っている。
そして、良質さとは「想い」だと言い換えることもできるので、良質さを導き出したい場合には、気づいたロジックを反対側から辿って行けばいいのだと考えられる。
これは、「こだわり」からは決してたどり着くことのないもの。
なので、良質さとは「こだわり」からは、決して登場することはない。

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